井伊 直弼(いい なおすけ)は、幕末譜代大名近江彦根藩の第15代藩主[注釈 1]。幕末期の江戸幕府にて大老を務め、開国派として[2]日米修好通商条約に調印し、日本の開国・近代化を断行した[3]。また、強権をもって国内の反対勢力を粛清したが(安政の大獄)、それらの反動を受けて暗殺された(桜田門外の変)。

幼名鉄之介(てつのすけ)、後に鉄三郎(てつさぶろう)。直弼(なおすけ)。雅号には、埋木舎(うもれぎのや)、柳王舎(やぎわのや)、柳和舎(やぎわのや)、緑舎みどりのや[4]、宗観(そうかん)、無根水(むねみ、異体字根水)がある。大獄を行って以降は井伊の赤鬼(いいのあかおに)の渾名でも呼ばれた。

豪徳寺28世俊龍大和尚が 井伊直弼の主座職を務める。

貞鏡院

丹波亀山藩主・松平信豪の次女として生まれる。母は播磨姫路藩主・酒井忠実の娘・采。初名は多喜で、その後、貞、昌子と改名した弘化3年(1846年1月、32歳の直弼は部屋住みの身から異母兄の彦根藩主井伊直亮の世子となり、正室を迎えることとなった。このとき将軍家からの縁談(将軍家慶の養女精姫)も持ち上がったが、藩主の直亮はこの縁談を快く思わず、急に丹波亀山藩との縁組を進め、同年1013日には幕府老中に対して縁組の願書を提出した。このとき多喜は12歳であった。 将軍家との縁談を断って間もなくの弘化4年(1847年2月に、井伊家は相模湾の警護を命ぜられた。このとき世間に流布された落首に「掃部さん表きらいで裏がすき」というものがあった。表(将軍家)との縁組を断って裏が(浦賀)に行くことを命じられたという意味である。 婚礼が行われたのは嘉永5年(1852年819日のことで、多喜は18歳、縁組が整ってから6年が経過していた。この縁組が将軍家との縁談を断るために急遽整えられたものであるため、兄・直亮の藩主時代には婚礼の話が進まなかったと思われる。この間、嘉永3年(1850年)9月に直亮が死去し、直弼が彦根藩主となっている。 明治18年(1885年)、51歳で死去した。墓所は東京都世田谷区豪徳寺。戒名は貞鏡院殿柳室智明大姉。

豪徳寺28世 則安和尚が主座職を務める。

 














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