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僧名…不安則安、俗名…廣福則安  東加茂郡旭町字浮橋生誕

津速産霊神三代天兒屋根命春日明神次於國之辞代主命中臣神次於大和國夛茂峰談山宮武内宿祢 孫八十九代弘長年中武州豊嶋郡城主日野安藤駿河守藤原隆光三男安藤光二郎藤原高吉九十代弘安二乙卯年参州加茂郡大坪村移住而二十壱代安藤金重藤原盛久百十七代宝暦二壬申年八月仝国仝郡能見村に分右盛久ヨリ三代安藤源吾郎藤原義親五男〇廣福則安也者文政五壬午年四月二十四日夘上刻誕生


安藤駿河守隆光

 源海は藤原鎌足の末孫で、俗姓日野真夏11世安藤駿河守隆光と称する武蔵国豊島郡荒木村(現・埼玉県行田市)を領する鎌倉時代の坂東武者で、武州児玉党の随一といわれていた。

出家し、親鸞の直弟子に

 寺伝によると、隆光は寵愛する花寿丸(7歳)と月寿丸(5歳)の二人の息子をはやり病のため同時に失い、悲嘆にくれた。
 隆光36歳のある夜、亡くなった二児が枕辺に立ってこう告げたという。「われら兄弟は、西方浄土に赴いて観音と勢至菩薩となった。汝は未来永劫、悪道に堕ちるは必定なり。われら汝の二子となり、世の無常を目の当たりに見せしめた。すみやかに仏法を聴聞し、本願の大道に帰入すべし。」それが機縁で仏門を志したと伝える。
 それを動機に遁世して江ノ島の岩屋に籠って修行した。ところが、或る夜、夢にもあらず、二童児が来って「今東関に権化の僧あり。弥陀の本願を説きて時機相応の教えを弘む。速やかに彼処に至って聖化を受けたまえ。我は観音、勢至の二菩薩なり」と告げて、西方の雲にかくれた。
 その頃後に浄土真宗の開祖となった親鸞(1173―1262)は、越後に流配され、四年後赦免されたが帰京せず、1214(建保2)年妻忠信尼を伴ない関東に移住し、以後約20年間民衆の布教に専念した。
 隆光、後の荒木源海が常陸笠間の稲田の草庵に親鸞を訪ねて、弟子となったという。

万福寺の開基

 1245(寛元3)年、隆光が故郷へと志したとき、聖人の形見として、聖徳太子自作といわれる太子像(木像)を譲られた。帰りの途中江の島の岩屋に参篭し、夜の波間に浮遊する光るものを取り上げ、立像の阿弥陀如来を感得したとされる。霊場をもとめて砥上ヶ原にきた源海は、鵠(クグヒ・白鳥)の棲む沼地の一方を埋めて、一宇を創立し鵠沼山万福寺と号し、かの尊像阿弥陀如来を安置し、開基創建したと語り継がれている。
 後に関東六老僧の一人となり、笠原一男の「親鸞と東国農民」によると、親鸞面授の門弟数は44人で武蔵国では、西念をあげている。また、親鸞上人の直系―真仏―顕智―専空(以下略)、真仏の門流に、顕智、専信、専空、源海(荒木沼福寺)、了海(麻布善福寺)、了源(京都仏光寺)が六老僧とよばれて、聖人没後の関東教団はもとより他地方にまで広範な教線を張った俊才であったと記している。これには別説もある。

故郷へ還って入寂

 1250(建長 2)年、寺を真弟(実子で僧職継承者)誓海に譲り、故郷武蔵国荒木に還り、1253(建長 5)年10月22日に源海上人は故郷武蔵国荒木で入寂した。享年89

眉目如笑 温容如春 霊中而照 應外而新 一微塵喪 聞玄化石 草詩適轉 法燈無? 明霊了々全身 

ビモクワラウガゴトシ オンヨウハルバルノゴトシ レイチュウスナワチコレョテラシ オウガイスナワチコレヲアラタニス イチビジンソウ ブンゲンカセキ ソウシテキテン ホウトウムジン メイレイツネニリョウリョウゼンシン ホウゲゲンゼンシン

微笑むがごとし 春のような顔つき そのたましい(心)は内をてらし そして新たに外(おもて)に相応する きわめてわずかの塵もなく煩悩は断たれても なおやにくたいは化生する 語る詩(詞)は時に転じて無尽の法燈となる 明るく照らされる その魂は常に無我の境地としてもその身を放下する


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