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風の息子は、川で溺れたところを母に救われ、遠くへ逃げて兄たちから身を隠せと言われたが、どこへ逃げたら良いものやら見当もつかなかった。
それで、川岸を辿たどって上流へと遡さかのぼっていった。
彼はそれまで父の土地の周辺を歩き回ったことがあるだけで、つい先日兄たちに騙されてローグの森の奥を彷徨さまよったのが一番の遠出だった。
彼は父の土地より外の世界に興味を持ったことがなかった。
冒険なら、いつも風がしている。
逆説的だが、彼は風の精気エレメントの自由な魂を持っているために、風が運んでくる遠くの土地の香りを嗅ぐだけで充足できたのだった。
川はローグの森を真っ直ぐに貫つらぬき、その先に屹立きつりつする険しい山地の尾根に端を発していた。
父の土地シャスタの草原を吹き抜ける風は、その山地の上空から吹き下ろしていた。
風の息子がそこへ引き寄せられていったのは、自然の成り行きだった。
まだ見ぬそこは、彼にとっては父の家に次いで馴染み深い場所だったのだ。
山の斜面が次第にきつくなり、森が途切れ、ごつごつした岩場と地を這うように枝を伸ばすいじけた低木ばかりになった。
殆ほとんど垂直に切り立った岩だらけの山肌を、風の息子はたゆむことなく攀よじ登っていった。
この先に何があるのかを、彼は殆ほとんど確信していた。
ついに尾根の頂上に辿り着き、眼下を見下ろして、彼は不思議に思った。
父が屡しばしば話し、彼が想像していた通りのものが、そこにあった。
鋭い切っ先のような峰々が覆い被さるように囲んでいる、盆地だ。
岩をも削る強風から守られ、そこだけ深緑の森と草地が繁茂し、花々が美しく彩っている。
中央辺りに、鏡面のように空を映す湖もある。
これこそ、父が話していた世界の中心の園に違いない。
風の息子は、暫く山の峰の上から園の様子を窺っていた。
父が話していた六つの紋章の怪物がいるのではないかと、警戒していたのだ。
聞いた話では、それは振り仰ぐほど大きくて、人のようでありながら全く人でない。
風の息子の余り逞たくましくない想像力では、それ以上の詳細は全く思い描けないのだった。
盆地に動くものの気配はなかった。
意を決して盆地へ降り、辺りを歩き回ると、動物の骨が幾つか見つかった。
父が森で捕らえて飼っていた動物かもしれない。
この閉鎖した狭い土地の中では、家畜は自力では生きていけなかったのだろう。
ここには何もない。
草と木と、死があるだけだ。
湖も、父は魚を飼っていたと言っていたが、今はボウフラ一匹見つからなかった。
何もかもが終わってしまっている。
風の息子はそう思った。
彼自身も、とてもじゃないがここではやっていけそうもないと思った。